コンサート当日、私は舞台裏で準備をしておりましたので直接客席の方たちの声や反応は伺えませんでしたが、ソーラン節を無事終えて片付けをしていた時に、楽屋から出て来られた方たちの会話が耳に入ってきました。
「誰が発表したん?お客さんが違うんよ。」『幼稚園の子らよ!』「ほぉ。どんな衣装?」『黄色のハチマキに黒いハッピじゃろか。黒いピタッとしたズボンはいとる。旗も通ったわい。』「旗?どんなん?」『大漁旗よ!それを笹にくくりつけとらい!』「へぇ、そりゃすごい。衣装もカッコええがね!」
質問されていたのは目が不便な方で、様子を中継されていたのは、お手伝いの方でした。
会話の内容から、「お客さんが違う」とは、会場から聴こえてくる歓声や拍手が一段と盛り上がり、伝わる空気が初めとは全然違う・・・からだとおっしゃっていました。視覚に不便が生じるのは、生まれつき、もしくは生まれてからの病気や事故によるものだと思います。
私はただ純粋にこの方の感じたイメージや色が知りたいと思いました。もし生まれながらに視力が弱かったとすれば、この方にとって色や衣装はどう表現されているんだろうか、何が頭に浮かんでいるんだろうか・・・。後天性であれば色やデザインなどのイメージは頭が覚えているでしょう。しかし先天性であれば、色、形、大きさはどう映るんだろうと思ったのです。
以前、園長の友人が、心で見る・心で見えるとおっしゃっていましたが、心で見たこの世界は私には表現が難しいですが、きっと澄んで見えるに違いないと想像しました。
今回、このコンサートに参加させていただき、過去の体験や感情が鮮明に甦りました。大学時代の友人です。彼女は何度も聞き返したり、繰り返したり、ちゃんと聞いているの?と思う事が多く、さらにはいつも人の会話に入って来ては流れを止め・・・他の人と話していても内容を聞かれたり、講義に集中していてもノートをのぞきこんだり、筆談で気が散ったり。私たちは次第にそれを不快に感じるようになり避けるようになりました。ある時、彼女が講義を前に講壇に立っていました。学生とは違う雰囲気の方と一緒でした。緊張した表情で、ゆっくり話し始めました。自分が聴覚障害者である事、学校に交渉して手話通訳者をつけてもらた事、その事でみんなには迷惑をかけるかもしれないが理解してほしい事。私たちは彼女が耳が不自由な事に気付きませんでした。
聞き取りにくい言葉も、彼女の個性だと思いその事については気になりませんでしたが、その時初めて必死で話していたという努力を知り、涙で前が見えなくなったのを今でもはっきり覚えています。
障害があるとか、偏見とかで彼女を特別扱いしたのではありませんが、知らなかったとはいえそれは同じです。
自分が聴覚障害者だと知られる事で、友達がいなくなるのが怖かった、でもそれを知ってもらうことでもっと理解してほしかった・・・心に深く刺さりました。それ以来私の考えや、態度は大きく変わりました。頭で分かっているのではなく、心の行動で向き合うようになりました。
卒業後、似たような環境の中でたくさんの方の思いや悩み、不安や希望を共有できる仕事に就きましたが、現在は縁あって保育の道を歩んでいます。
私が初めて年中児の担任になった時、世の中は国際社会のハシリでもっと英語を身に付けましょうという風潮にありました。
世界中の人たちとコミュニケーションがとれる事も大事ですが、私はまず同じ日本人であるいろんな人たちと話しをしてほしい、仲間だと感じてほしい・・・と歌に手話を取り入れました。身近な所から馴染んで親しんでいける、それを家庭に持ち帰り家族に伝え、一人でも多くの人に関心や理解が広がればという思いがありました。受け持った子どもさんたちは私の説明をしっかり受け止め手話が会話の一つである事を知りました。
今回のコンサートは幼少期の子どもさんたちにとって「共に生きる」事の大切さや意味を直接肌で感じられる貴重な場となりました。
小さな芽がたくさんの花を咲かせるようこれからも心に豊かさと愛情を持って教育に携わっていきます。交流の場を与えていただいた事、感謝申し上げます。
ありがとうございました。